[シリーズ・大学教育を考える④]「留学はもはや時代遅れ」論。

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 ホリエモンが9月にネットでぶちまけたコメントが炎上していると聞いた。ホリエモンは同年代ではあるものの、好きなタイプではないが、今回のコメントは正論。別にいきり立って反論するほどのことでもない。

 はっきり言おう。本当に時代遅れだ。これはすでに一部指摘していることでもある。大学の性質が変化しつつあるこの時代、生活体験を含めても、留学の意味は薄れていると思う。

 僕が最初に留学した時代は、既にその必要性の有無が怪しくなりかけてきたタイミングだったと思うが、おそらくあの時点で時代遅れだったように感じる。テクノロジーが進化し、ネットを使えば様々な情報が手に入る時代、わざわざ大枚を叩いて海外に出かけて学ぶ必要性は余計に薄れている。

 もちろん、今なお「生活経験やそれによる視点の多角化」を収穫として挙げ、そこから留学の意義を強調する方もあるだろう。しかし、今回コロナ騒動で明らかになったのは、その論拠の貧弱さではないかと思う。

 オンラインクラスを無闇に否定する学生もいるが、本当にそうだろうか?教室で勉強するよりも先生が近くにいて、自由に質問や同級生との対話が打ち込める環境は、キャンパスでの体験に劣るのだろうか。僕はアジアの授業形式よりもよっぽど面白いと感じている。言わんや、つまらない揉め事に巻き込まれたり、変な料理を食べることが貴重な経験になるのだろうか。ホストファミリーにしても、運が悪いと付き合いにくい家庭に割り振られることもある。それが楽しいのだろうか。単に場所を変えて買い物することにそんなに意味があるのだろうか。

 僕にとってのこの国は、留学先としては中国・韓国・台湾・香港・フィリピンに続く六番目の国になる。その中で、今の自分を形成しているのは恐らく大部分において中国と日本の生活経験になると思うが、別にどれも普通の生活であり、貴重とは思ってもいなければ、感動のストーリーなど何もない。そこで、たかが2年そこら留学した学生が、留学の「意味」とやらをお花畑チックに力説するのを見ていると、馬鹿馬鹿しくて聞いていられなくなる。こちとら30年近く海外で生活していて、その半分は学校にいるのだから。

 端的に言えば、買い物がアマゾンや宅配で解決でき、クレジットカードが使える国にいる限りは、留学やそれに伴う生活体験はそれほど意味をなさない。単に言葉が稚拙で苦労して、現地の人が優しくて、みたいな体験はどこでもできるし、日本でできないことを探す方が難しいはずだ。だからと言って、不自由な国に行って不自由をして、その体験談をネタにドヤ顔で語ることにも意味は見出せない。逆に、そんなことのために何百万捨てたんだ?と聞きたくもなる。

 留学しなければならない理由が見つかるなら、それはそれで正しい。例えば、コアラやカンガルーを対象とする医学や、オーストラリアのアボリジナル言語の研究をするならば、オーストラリアにくるのが一番だし、地域の歴史を研究し、フィールドワークがしたいならその国に行くのが最適だ。しかし、ITやビジネスのような専攻のために海外に来るのは感心しない。どこでもできるような専攻は日本でやれば良いのであって、それをわざわざ海外でやるというのは、時間の無駄でしかないのだ(日本でできない専攻や、日本で適当な受け皿となる学校がなく、海外ではOKな場合は別だ)。語学も同様で、日本でできないものは海外に行っても大きな進歩は望めない。できる人は伸びる。しかし、できない人は海外でも伸びないのだ。

 この危機に囲まれた千載一遇の時代、我々は思考のベクトルを変えるべきではないだろうか。その意味で、ホリエモンの発言は価値があったと思うのだが、みなさんはどう思われるだろうか。

 

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