[シリーズ・大学教育を考える①]キャンパスがなくなる日。

 今回のコロナ禍で露見したのは、人類社会がとんでもなく強いハコ信仰を持っていたことだ。それはもちろんカフェであったり、劇場であったり、学校であったり、お役所であったりと、その種類や概念は問わない。

 しかし、オンラインクラスが世界中で展開されるようになり、出前・デリバリーで食事や買い物を済ませるようになって、その「場所」の存在意義を考えた人も少なからずいたのではないだろうか。

 その代表が学校ではないかと思う。学校には教室があって、そこで先生がみんなに語りかけるものだ、という前提は、ここにきて一気に崩れた。教室はどこにでも拡大(モバイルで)できるし、電波さえ安定していれば、別に公衆トイレで授業を受けても、船や電車の上で受けてもいいのだ。この数週間で、そのことに本能的に気づいた学生も多いのではないだろうか。

 とすれば、大学とはなんなのか。そして教員とはなんなのか。そんな疑問に行きついても不思議ではなかろう。

 異論はあろうが、僕は将来はキャンパスをはじめとする会場施設は無くなると思っている。もしかすると、学校の建物はオフィスになるかもしれないし(オフィスもいらないのだが)、建物を福祉に転用するかもしれない。さらには、キャンパスは国立公園になってもいいと思う。サーバーのみが学校で管理され、多くの事務職員は職を失う。学閥や醜い争いもなくなっていくだろう。そして余分な電力や水が使われなくなる。1年間で学校が使う電力や水は激しい量になるので、これは省エネルギーやサスティナビリティの一環としても歓迎されるだろう。

 教員も、学校と関係機関の認証を取る形で自由になり、単位もそれぞれが付与することができるようになる。そして、学生は世界中の教員から、学位の要求にしたがって好きな授業をとることができ、教員は学生を選び、学生も教員を選ぶようになり、教員の与えられる単位数が決められていき、三流と言われる大学の淘汰が始まる。必要単位を集めた学生は、その単位と付与者のレベルを認める大学から卒業認定を受ける。そのうち大学自体がなくなり、独立した学術団体が卒業認定を行うようになるかもしれない。いや、もしかすると、AIが自動判定するようになるかもしれない。要は、世界中のどこからでも、受けたい先生の授業を受けて単位をもらうようになるわけだ。

 そうなれば、学校など意味がなくなり、大枚叩いて留学しなくても良くなる。家から世界の先生の授業にアクセスし、意見を交わし、単位をもらい、卒業認定を受ければいいのだ。そして、本当の意味でのプロの卵が育っていく。就業機会も世界中でフェアになるであろうし、職業選択の自由度も高まる筈だ。

 もちろん、古いものを変えたがらない日本人には無理かもしれないし、当分は変わらないかもしれない。だが、いつかはこうなっていくのではないか。

 全ての人類に問いたい。今の形の学校は必要なのだろうか。

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