[シリーズ・大学教育を考える③]オンライン教育のあるべき姿とは。

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 何種類ものオンラインクラスを受講してきて、ふと思ったのは、本質的にオンラインクラスを理解している人がいないという点だ。

 恐らくこちらの多くの人が抱くイメージというのは、①「教室でやっていたことをオンラインでやる」ことか、②「ビデオを撮影してシステムで公開し、宿題を集める」こと程度なのではないかと感じる。そして、オンライン教育はいわゆる伝統的な「通信教育」に近い「自己学習」であるという本質が忘れられているのである。

 どこの国でも通信教育というのは発展しているはずだが、ここにきて本来通学ベースで進められていた授業が遠隔受講になったのだから、通信教育の知恵を生かしてもいいはずだ。しかし、それはどうも生かされておらず、教室の延長形式が続けられているように感じる。

 現状の整理

 僕が実際に受けてきた通信教育・ネット教育のスタイルには以下のようなものがある。

 ①テキスト・課題用紙送りつけ型の突き放し教育。通信教育の大半がこれで、ほぼ教材の押し売り状態。添削はあるが、これで修了できる人はほんの一つまみ。
 ②上記にビデオ教材つくもの。これもいわば押し売りというか売りっぱなし系。これも大量の教材が手元にのことだけのことが多い。効果は①と近似。
 ③上記にディスカッションボードがつくもの。これは少々インタラクティブになるが、基本は上記と同様。ただ、参加感があるので、少しモチベーションが上がる。
 ④一部ライブ授業がつくもの。これはもう少しインタラクティブになり、効果も向上する。
 ④上記に対面スクーリングがつくもの。これは少々受講者に「やった感」を与え、余計にひっかかりやすくなるのと同時に、実際に手作業も入るので、効果も上がる。
 ⑤更に海外まで行かせてしまうもの。休暇をとっていくケースが多いので、高揚感があり、満足感がかなり上がり、意識高い系には大受けする。
 ⑥ネットでの対面だけのもの。オンライン英会話などがこれにあたる。その時間を確実にとるので、やる気と稼働時間は数値として出るが、それをうまくフィードバックしていけるかに関しては①と同様。

 各国の通信教育はこうした蓄積があったものの、たくさんの現場の教員は今回のような無理やりオンラインは経験しておらず、全く御し切れていないばかりか、教員の戸惑いと学生の怨嗟の声ばかりが目立っている。

 その距離感と勘違いはどこにあり、どう解消されるべきなのか、という点が、今回の主題だ。なぜそうなってしまっているのか、どうしたらいいのか、それを日常から考えてきたのだが、今日はその段階的結論を出し、自らが今後考えているネット教育に生かすための方法論の出発点としてみたい。

 大きなことを言ってしまったようではあるが、この年までずっと学生をしてきた身としては、それぞれに不満があり、同時にそれぞれに評価すべき点も見出しているので、それを活かして何かをつくってみたいと感じている。

 提供されたコンテンツ

 先にも述べたが、提供された授業は「なるべく教室と同じもの」だ。これはとりあえず間違ってはいないのだが、実際に双方に掛かっている負荷が違ってきていることが考慮されていなかった。教師の側から見れば、これも人によって違うのだが、同じことをするだけで十分と考える向きがあった。もちろん、様々な副教材を整えて、全てアップロードしている教員もいた。後者は正しいのだが、少しかけている部分があったと考えている。

 欠けている部分とは何か。前提として、こうした形式の授業にはフォーマットがないことがある。これだけの量の資料と、これだけの尺の映像と、、、という基準が設けられていない。そこに生じる質と量の差こそが、欠けている部分なのではないかと思う。「これがオンラインクラスだ」という定義が欠けているせいで、そこに基準外の授業が蔓延るのだ。

 これまでの通信教育は、テキスト、ビデオ、音声、ドリル、ツール程度がせいぜいだったろう。そして、これまでに存在したビデオ授業は、せいぜいがビデオ、有っても字幕、そこにパワポがあれば上出来だった。しかし、そこには数値基準はなかったし、クオリティに関する要求もなかった。そもそもそんなことを考える企業はなかっただろう。

 では逆に、その教育効果は測定されたことがあっただろうか。多くの通信教育は、その結果は受講者任せであり、自然界が自然淘汰に任せるが如く、続かない受講者は見放され、胴元がもうけをふやす仕組みになっていた。その大半は、いわゆる資格講座であるが、原因は学位授与型に比べると人生での重みが違い、受講者もそれほどの金額を要求されず、期間が過ぎたら忘れてしまうことが多いからだ。 

 この習性がどれだけ●ペンの○子ちゃんで有名な「●くぶん」や、「日本通信●育連盟(今はユ●キャン)」や福○書店(今は○ネッセ)を太らせてきたかは、今更説明するまでもなかろう。そして、我々受講者がどれだけ注ぎ込んできたかもご存知の通りだ。言うまでも無く、それは学位がかかっていても同じことが言えると思う。現在ではネットだけで修了できる大学が多く存在するが、その主催大学の多くも性質は同じで、売りっ放しだ。僕もいくつもの教育機関に「投資」してきたが、いわゆる学生の修了に向けたコミットは何もなく、どこでどう死のうがお構いなしだった。この点は、実際にオンキャンパスで学校に在籍するのとは確実に違う部分でもある。

 だが、そうした通信教育企業の教材の作り込みは確かに思考を巡らせたものだったように感じている。一方で、大学などの教材には作り込みは全く見られなかった。これは要は「着目点が全く違う」と言うことだ。一般企業と学校法人格を持つ学校との高飛車度の違いとでも言った方がいいのだろうか、そうした精神状態の違いと、売り手視点(学校)と買い手視点(企業)の違いといったものが存在するように感じる。学校(売り手)はとにかく偉いのだ。だから学生を顧客として捉えていない。その態度が教材にも出ているのだとは言えまいか。この段階は、今豪州の大学が乗り越えようとしている部分でもある。

 こうした提供物に対して、求められるものとは何か。それは、①如何にすればインタラクティブになりうるかが考慮された教材であり、②システムであり、③「わかる体験」ではないのか。

 求められるコンテンツ

 学ぶ身としては、コスパを追求するのは当然のことだ。多額の金銭を支払い、それなりの知識の得られる環境が提供されないのであれば、それは完全に詐欺だ。その意味で、日本の各大学が提供する通信教育は時代遅れの詐欺だと言える。学校で教えられている内容すらも、その価値があるか疑わしい。それはグリフィスでも同じことに感じる。特にオンライン化して以来、そのイメージとコンテンツの差は激しい。しかし、これは同時にオフラインでの教育が問題を孕んだものであったことをも意味している。

 教室での講義は有効だったのか。問題はそこまで掘り下げなければ解決されない。鍵は、我々は学校に何を求めているのか、にある。

 我々が学校に求めるのは知識とそれを活用するロジックの伝授と定着だ。だが、通常教員のしていることは、知識を放り投げて放置、結果はテストをして点数を出すだけになっている。その中身は通信教育と何ら変わりはないのだが、同じ教室の空気を吸うだけで学生が納得している感がある。しかし、それは教育産業に寄付をしているに過ぎないことに、何人が気付いているだろうか。テストは効果測定のツールとして非常に理想的なものかも知れない。しかし、その後のフォローが全く無い。教師はよく「私たちの仕事は君たちを導くガイドだ」と言う言い方をするが、学期が終わると、まだ出口が見つからないのに放り出してしまうのが現状だ。

 そこで実際に何が求められるのか。それはマテリアル(自修教材)だ。通信教育はすでにその答えの一部を提供しているのだが、学校教育は全くそこに気づかないままに放置しているのだ。

  1) 同時利用型授業補助資料 

 これは僕が技術系の科目の授業を受けていた時に気づいた点でもあるし、技術系の科目で特に現れる特徴でもある。例を挙げよう。我々はサイバーセキュリティの授業などで、バーチャルマシーンを利用してハンズオンで現象を学ぶのだが、これは授業中の映像や、授業後にそのビデオを見ながらやることで完結する。しかし、もしも授業を受けず、ビデオだけで学習する場合、その効率はどうなるだろうか。わからないところはメールでもすれば良い、と言うことになろうが、実際にはそこに詳細な解説があれば、その大半は解決できようと言うものだ。これは実際に授業に出ていても変わらない。もしも授業後に自分で手順を追うことのできるプリントが与えられていたら、多くの科目で落ちこぼれを防ぐことができることだろう。

 2) 字幕付きビデオ(もしくはスクリプトファイル)

 現状の授業は録画済みのビデオとライブのチュートリアルで構成されている。科目によっては両方ともライブで、5時間ぶっ続けの講義を受けることになる。しかし、我々にとってはどちらにしても「なかなかわからない音」の中に放り込まれることになるので、ここに字幕を付けるべきではないかと考えている。

 この点は学校にも意見し、早速その案は採用されていて、学部長から指令が下っている。もし今後ここを読んだどなたかがグリフィスの授業を受けるとして、そのビデオに字幕がついていたら、それは今学期に僕が上げた声の結果だと思ってもらっていいと思う。もちろん、日本であれば日本語の字幕をつけたものが提供されなければならない。各国ともに考えなければならないのは、外国語としての言語は単なる媒介に過ぎないと言う点だ。学校の教務担当は、「教授されるべきは学校の誇りをかけた、時代の先端を行くコンテンツであって、言葉の種類は重要ではなく、そこで外国語の能力が教授内容の吸収に影響するようなことは、本末転倒であって、本来あってはならないことだ」と言うことを前提として考えておくべきだろう。

 話がそれたが、更に、字幕をつけた後、それをテキストファイルの形で提供することも考えなければならないだろう。これは留学生にとって大きな励みになるし、学校からしてみれば「ここまでやってますよ」と言う証拠にもなるし、教師としても、こうした資料を作ることは、学生の理解度を把握するのに役立つとともに、自らの講義の穴を見つけることにもつながる。

 3) 参考資料のガイド(自己学習用ガイド)

 これは最初のものに似ているが、そうではない。

 多くの科目には指定テキストがあり、さらに配布資料が提供されている。パワポもそのうちの一つだ。しかし、毎年のように関連論文やテキストを研究している教員と、単にその教科を受講しただけの学生とでは、その前提に大きな差が生じている。ここで言う資料ガイドとは、学生に参考書として指定した書籍や資料について、講師がその理解を全て傾けて解説した資料を指す。そこには講師が理解してほしい理想型が示されるはずだ。

 そもそも学校というのは、入ってきた学生を理想の国民に育てる為の場所であって、単に教えて点数をつけてお仕舞いの場所ではない。であれば尚更、その完成形に向けてあるべき姿を示した資料が提供されるべきなのだ。

 これは学生の学習能力と、自修における道筋の付け方を教えるものとなり、ライブ授業での資料とは違った意味の独立学習を促すものとなる。

 提供されるべき授業のかたち

 これらが存在するという前提のもとに、理想の学習ルーチンを考えてみたい。もちろん大前提は「室内留学」だ。

 「学生として授業に臨む貴方は、チュートリアルライブの前にビデオ講義をみなければならない。貴方は一回試しにビデオを再生したが、何のこっちゃな状況で、腹落ちのしないものを抱え込んでしまう。

 そこで貴方は資料を全部プリントアウトしてみることにした。そこには、①スクリプト、②テキスト、③テキストの副読本、④関連論文、⑤論文の読み方とポイント解説、⑥チュートリアルのテキスト、⑦チュートリアルの分解ガイドがあった。

 そして、まずスクリプトを機械翻訳にかけ、読み込んでみる。さらに、他の資料も機械翻訳にかけてしまった。再度印刷し、読み込んでみる。テキストとスクリプトを読んでいくと、どうもそこにはよくわからないキーワードがある。解説はついているが、どうも論文についての話らしい。そこで論文の訳と講師の解説を読んでみたところ、一気に視界が開けた感覚を覚えた。

 そしてビデオを見ると、スクリプトがあったせいか、なんだかまあまあわかるし、講師の言葉もまあまあよくわかるようだ。しかし、バーチャルマシンを立ち上げ、システムを自分でいじってみると、違う疑問がまた頭をもたげる。そこでライブチュートリアルを受け、質問し、更に予習で読んだチュートリアルテキストでぶつかった問題についても、ライブをみながら解決していった。ライブ授業の後、更にチュートリアルガイドを読み、自分でもやり方を確認することができた。忘れると困るので、ガイドに従って何度か自分でも操作し、システムの操作を覚えた。すると、講義で出てきたコマンドについても意味がわかり、自分1人でも問題を解くことができるようになった。」

 ご都合主義の台本だが、実際にはこうしたステップを踏むことで知識は自分のものになっていく。

 僕は機械翻訳を利用しているので、その効用は称賛こそすれ、否定をする気はさらさらない。わからないものは聞く、それだけのことだ。知識を自らのものにすることは悪いことではなく、奨励されるべきことだ。

 立体的に、考えうる全ての方法で知識を提供するのが教育産業のあるべき姿であり、そこに積極的にコミットしていく(建設的意見を出していく)ことは、学生の義務でもある。少なくとも、豪州ではそうだ。

 今後起こすべきアクション

 学生として、僕自身は気づいたことを常に教員側に提案している。それは彼らが教育産業であり、我々が顧客であるという認識に基づくものだ。

 このサイトの読者はなぜか在豪の方も多い。そこでお願いしたいのは、日本のようにただ単に受け身に授業を受けてテストの点数を受け入れるのをやめることだ。そして、何が理解しにくいのか、どうしたら理解できると考えるのか、それをストレートに教員側に伝えることだ。それは①直接教員にいう②学部長に言う③アドバイザーに言うと、いくつかのルートがある。そして、そういうやりとりなしには、異国で知識を手に入れるという目標を達成することは容易ではない。

 そこで大事なのは、オンラインクラスであれ、オンキャンパスのクラスであれ、「理想型」を頭に叩き込んでおくことだ。自分の中にあるべき姿が見えていなければ、それを要求することも想像することも不可能だからだ。その形は既に上に示した。そこで、「今受けている科目にはAがない、Bがない」という議論が理詰でできるようになれば、学校も応じざるを得ないし、自らの留学(自国でもいいが)のコスパを上げることにつながるだろう。

 最後にもう一度強調しておこう。上の条件を満たしていないオンラインクラスは、本来的意味合いでのオンライン教育の意味をなしていない。それは欠陥商品だ。そうでないならMOOCで十分なのだ。故に僕は、学校との協議を今後とも続けていくつもりでいる。皆さんも、是非負けずに学びを深めてほしい。

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 このページではコメントがあまり頂けていないので、日本や豪州からアクセスして頂いている方が学生なのか、もし学生ならばどのような心境で授業に臨んでいるのか不明だが、もし貴方が学生なら、自らの巨額の学費を無駄にしないよう、意見交換しつつ共に努力をして行きたいし、もっと良い形があれば、そのアイデアをシェアしてほしいと考えている。僕のアイデアは数あるうちの一つに過ぎない。

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