2019年活動報告

 今年は様々な意味で変化の年だった。変化が変化を呼び、人生の全環境がリセットされたと言っても良い。そして、次のステップへの手掛かりを掴んだ年でもあった。

 振り返ると、季節毎に何かが変わってきていたようなので、Q1からQ4に区切ってまとめてみたい。Family Holiday Letterの様で気が引けるのだが、こんな人もいるのね、程度の参考になればと思う。

Q1 家畜人工授精師免許取得、中国離脱。

 昨年から受けていた家畜人工授精師講習会がまだ続いていた。免許取得の為、また、畜産の現状理解の為、講習会に申し込み、農業大学校に足繁く通った。また、その途中には沖縄に飛び、家畜商の講習会にも参加。2月末には、両方の免許を取得。牛の肛門に手を突っ込むことになるとは、昨年11月まで考えていなかったが、本当にいい経験になったし、畜産農家への畏敬の念と愛情が育まれた。だが、業界や役場の閉塞性には辟易とさせられた。振興振興と言いながら、他業界の人間を受け付けない。これでどう振興するのか。

 2月末に北京。「中国からの卒業」式次第が始まった。正確には、3月18日に北京から帰朝。全ての仕事をリモートに切替えた。

 Q2 就職、退職、休暇、模索。

 4月には新しい仕事を始めてみたのだが、そこでは最初から給与未払いが起こり、一ヶ月経たずにポジションを離れた。*この時の未払いは12月まで解消されなかったが、色々聞いた感触では、「払われただけマシ」だったかもしれない。

 4月25日から5月8日までは、ボンド大学にスタディツアーに出かけた。

 帰国後、TECH:CAMPの無料体験に出かけたり、別の語学留学に関する問い合わせを始めた。6月には、韓国・台湾・香港留学を6月下旬からのスケジュールとして組み終わった。

 また、6月には浅草・高松へと旅行に出かけた。その後、24日には韓国へ旅立った。

Q3 韓国・台湾・香港語学留学、北京引揚、渡豪。

 韓国では、梨花女子大学での語学留学3週間コースに参加した。周りの言っていることがさっぱりわからない中で、コシウォン(3畳にもならないスペースに、ベッド・机・シャワー・トイレ・クローゼット・洗濯機が詰め込まれた、受験生向けの刑務所の独房の様な宿泊施設)で丸々3週間、よくも暮らしたものだと思う。今までで一番無茶に感じたのも、この時だったように思う。何しろ今まで使ってきた言葉が全部使えない。これは自分を見つめ直す機会でもあった。

 しかしながら、そこでは、日本人だけでなく、韓国人、香港人、タイ人、マレーシア人、台湾人、更には日本で育ったアメリカ人など、多くの同学と知り合えた。彼ら彼女らとは、今でもカカオトークなどで繋がっているので、結果から見れば本当にいい思い出になったと感じている。帰りには、コシウォンの管理人と二言だけ会話が成り立った。

 また、期末試験で97.5点をとり、初級クラスで最優秀賞を貰った。今でもその時の賞品である保温水筒は使っているが、メッキがハゲハゲでちょっと悲しい。

 韓国から帰国し、5日間だけ日本に滞在、すぐに台湾に出かけた。1週間の台湾語研修のつもりが、自己主張の強すぎるおばあちゃん先生で、ほぼまともな授業は受けられなかった。テキストは色々揃えたのと、少しだけ発音の授業をするよう仕向けることができたので、後はその録音を使って自分でやるより他ない。

 台湾の友人ら数名とも何年かぶりに会えた。そこだけは良かった。殷海光という若くして亡くなった思想家の記念館がホテル近くにあり、土砂降りの中で訪問し、そこで新鮮な思想に触れたのも印象深かった。

 続けて、台北から香港へ渡り、1週間の広東語留学を敢行。これは20年来の夢だったので、異様に嬉しかった。先生も面白い人で、一生懸命教えてくれた。テキストを買い、先生に貰ったリスニング教材も年末になってやっとPDF化が終わった。今後は気晴らしに少しずつ勉強したい。台湾語と違い、基礎はできたので、自分でもできると思う。

 香港では、高校時代の恩師の他、韓国留学のクラスメート、その他の友人らに再会。今から考えると、僕のいた1週間が、比較的静かな香港の最終週になったようだ。黒服たちの騒動にも巻き込まれたが、とりあえず無事に過ごせたわ、フェリーにもついでに乗ったわと、色々な思い出ができた。その後、デモは一気に激しさを増していくことになる。

 台北経由で帰国。台北空港のラウンジの宿泊室は、風が強くて眠れなかった。次は絶対使わない。1万も払ってこれはなかろう。そして、翌朝台北から成田に到着。ディレイしたせいで、非常にギリギリだったが、成田で荷物を家に送り、そのまま空港線に飛び乗って羽田へ移動し、当日の夕方便で北京へ直行。朝一だからディレイはあるまいという甘い予測が裏切られ、汗だくで羽田に向かった。もうこういう乗り換えはしたくない。

 そこから8月20日まで北京に滞在、職場に最後の顔見せをした。もう大陸に渡ることはないと思うので、恐らく大部分とは今生の別れだ。もちろん、大陸で知り合った大部分の友人とも、今後会う機会はほとんどなかろう。20年というのは、結局この程度のものなのだ。

 帰国した翌日、21日には仲良しの作家先生を接待。新聞社、国会、出版社と、独自に見学コースをアレンジして、1日動き回った。

 新規の仕事に共に取り組む翻訳者の方々と会合。

 翌週26/27は芝浦屠場を見学。牛について、人工授精からその死までを見つめることができた。解体される運命は本当に可哀想だが、それを食する人類として、知っておかなければと思った。

 新規の仕事開始。リモートで参加。

 8月30日、豪州へ。9月3日にオリエンテーションと聞かされていたので、勇んで出かけたら、EAPは翌週と言われる。誰もそんなことは教えてくれなかった。最初から1週間分の家賃を損失。そこで既にマイナス印象が刻まれた感がある。その後に計画していたコースに関しても、「元々がオンラインの学生だったこと」が原因で奨学金申請を受理されないことが判明。他の生活面に関しても、ほぼDIYな国だとわかり、相手に期待できないと理解した。この頃には既に、無意識ながら転校への基礎ができていた様な気もする。ある意味、洗礼を受けた訳だ。だが、まだ明確なプランは考えていなかった。アパートも安住の地ではないことがわかった。中国系のマネジメント会社は、マネージャーが全く表に出てこないし、金を取ることしか考えていない。

 授業開始、初めてPASSWORD試験(既出)を受ける。その形式はIELTSに沿ったもので、今から考えると、全ての勉強の基本型になっていた。

Q4 授業、転校、IELTS。

 10月には中間試験。その後3連休してから、授業構成が緩み始めた様に感じる。遠足や突然の講座など、意味不明なアレンジが続き、何かリラックスしすぎな印象を受け続けた。

 その後、恐らくネットで広告を見て、今後の専門領域への興味が生まれた。11月1日には学校のオフィシャルサイト上で英語レベル測定の為のオンラインテストを受験、3日後位に「レベル6で20週」との結果が届く。

 その他の件についてグリフィスに質問を送りつけたが、返事が来ないので、いくつかの部門にメールを送る。すると日本事務所が現地エージェントにメールを転送した模様で、ジャンクに入っていたエージェントのメールを発見、そこから手配に入る。

 日本にも連絡し、卒業証明書等の手配を行う。奇しくもこの頃から未払い関係が動き出した。やっていることは正しいという証明のように感じた。

 出願の最後の段階になって、出願予定の専攻の内容が元々ある専攻科の一部を切り出したものであること、その専攻科は業界団体の認証を受けているが、本来出願するはずだった専攻科は開設2年目で、まだ認証を受けていないことを発見。大きな専攻科の方に出願することに決定。

 その辺からの経緯は既に色々と買いているので省略。

 IELTSにもその頃申し込む。

 12月2日、オファー到着。リリースレター手配へ。

 12月7日、もしかしたらいい結果が出るかも知れないとの気持ちを込めてIELTSを受験。

 12月10日、期末試験、12日点数確定、13日にはリリースレター到着。

 20日にIELTSの結果を受け取り、点数も理想的だったので、エージェント経由で学校に提出。コース開始日が3月に、期間も目出度く10週に変更。その日の午後はキャンパスツアー(既出)。4月に勤めた会社の給与精算完了。

 このタイミングで未払いの給料が振り込まれた。今年やることに「ほぼ見えた感」が生じる。

 24日、最終オファーが到着。これまでで一番厄介で大きな、且つ出費と希望を伴うクリスマスプレゼントになった。

 25日、帰国。2ヶ月の休暇に入る。

 

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