
第二次大戦を経てこれまで、世界は英語に平伏(ひれふ)していると言っても過言ではない。それはもちろん、文明イノベーションのメッカであり、先端技術の研究の進む米国が世界をリードしてきたからなのだが、様々なツールが溢れる現代において、そこまで英語に五体投地する意味があるのか、最近とみに疑問に感じている。
違和感を感じたのは、何かあるごとにコミュニケーションをせざるを得ない学校とのやり取りでの中でだ。もちろん、英語国家なので、英語での問い合わせは普通のことだろう。しかし、日本であれば、そこにはなんらかの逃げ道があり、中国などにも英語のチャンネルは存在し、相手も何か助けようとするし、基本国際部門というのはそういうスタッフを多く擁している。しかし、英語国家はそんなことお構いなしだ。
何でもかんでも英語のみ、サイトは時々ページによって中国語なことはあるものの、他の言語はお構いなし。グリフィスなどは、日本語の概要ページや形式のみの日本オフィスはあるが、現地でのサポートはないし、例え日本人スタッフがいても、英語で相手をさせている。UNSWなども、とんでもなく困った会話の後にしれっとメールをよこしたのは日本人だった。それもやはり英語だ。
実際に我々留学生が困るのは、医療や大家との揉め事などの言葉が思い通り通じないシチュエーションだ。さらに、そういう時に限って切羽詰まっている状況が多く、上手くいかないと余計にストレスが溜まる。しかし、学校側というのは、そうした状況に関して何か策を考えるでもなく、英語至上主義を押し付けてくる。これは問題解決の姿勢ではない。昔ISA(留学生アドバイザー)のことを酷評したのも、その辺に端を発している。
しかし、それを揃いも揃ってそれを「おかしい」と思わないのは、恐らく何もしなくてもこの国に学生が来ていたからなのだろう。「ちゃんと学生していたければ英語勉強しろ、困るのも勉強だ」とばかりに居丈高に構える学校側には、これまで誰もこの点について躙り寄る学生がいなかったのだろう。サービス向上などという視点には気付くこともないまま、進歩もなく拡張を続けてきたのだ。これでは学生が来なくなってリストラが続いても、誰も同情しまい。切られた学生は「樣を見よ」とばかりに突き放すことだろう。
追い討ちをかけるのは、そこにお馴染みの「ルールに書いてあることは提供するが、それ以上のものは提供しないプログラミング言語精神」が重なるパターンだ。これが前提にくると、彼の国民は決定的に何もしようとは考えない。命令にあれば実行し、なければ気づきもしない、そんなゼロイチなプログラミング言語ライクな気質は今までも何度となく書いてきた。そんな国にいて、ボンドでもグリフィスでも、アジア系のスタッフがいなければ僕も心が折れていたに違いないが、彼らも最初は現地風に冷たかった。長く付き合ううちに色々と知恵を出してくれるようになったものの、豪州ではそうでないと社会との間にフェアな関係が築けなかったということなのだろう。
だが僕はやはりこういう点も相手に伝えていくべきだと考えている。最近、学部運営委員にも指名されたので、任期中はこうした点を含め、授業内容や学校運営全体について意見を伝えていきたいと考えている。全てがクリアされた日には、この若く無名な学校ももう少し日本で知名度や親和度を上げていくことができるように思う。
戦いはまだまだ続く。
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