
前回と類似しているが、また例が増えたので追記する。
国内移動には何度か使っていたヴァージンオーストラリアがほぼ経営破綻した。2年くらい赤字を垂れ流していたので、仕方のない部分もあるのだが、国内線の3割を担っていただけに、各方面への衝撃は大きい。リチャード社長も実際のところどこまで救いたいのか不明なので、先行きは身売りしかないのかも知れない。
今回の破綻はオーストラリアだけでなく、本社まで含まれており、イギリスの本社も政府に救済を求めている状態だ。これを書いている4月25日現在、ゴールドコースト空港は閉鎖されているので、日本に帰るにはブリスベン・メルボルン・シドニーに出て、そこからカンタスや全日空に乗る他はない。ここまで急な措置を取ること自体に特別に異論を挟むまでのものではないが、毎回「今日から」と、いきなり発令するのだけはなんとかして欲しいものだ。
思えば渡航禁止や類似の措置も突然だった。一回を除けば、言ったそばから実行すると言う徹底的なオーストラリア的手法で、その「遵法精神(と思っているらしい精神)」は至極極端なアクションを起こす。なので、色々見ている限りは、あまりこの国にはルール以外のことは期待できないのだなと感じること頻りだ。前回のフロントとの会話も含めて、余計な「サービス」は存在せず、「決められた動きあるのみ」と言う基本姿勢が徹底されている気がする。ただ、それを逆手に取るならば、その「型」を守るための動きはどうやっても要求できると言うことだ。
一連の豪州国内での引きこもり宣言と同じようなタイミングで、マイクロソフトオフィスのシリーズ製品にアクセス障害が頻発した。多くの学校がTEAMSやONENOTEを使うようになり、ユーザー数が爆増した結果、世界各地で「アクセスできない状態」が頻発したのである。この結果、校内でも多くの学生がアップロードできなかったり、アクセスできない障害が山ほど起こった。
これは言わずもがな「学校が使うことを強制しているツールの故障」であり、それはどうやっても克服されなければ責任は学校にあることになる。と言うことで、学校側も必死でその状況把握と復旧に注力せざるを得ない状況に追い込まれたのだ。
僕がやったことは、毎回障害が起こるごとに報告を上げ、フットプリントを残したことだ。学校はなぜか人間よりもルールの塊のプログラムばかりを信じるので、こっちはこっちで、今障害起きてます、証拠もあります、と繰り返すことで、自分がサボっているのではないことを示したのである。最後は学校側から積極的な解決策を示してきたり、責任者が電話してきたりと、様々なコミュニケーションをとることができ、今のところシステムの障害が酷いという状況は共有できるようになっており、対話の基礎ができたのと同時に、これまでアナウンスでしか出てこなかった相手とも直接話すことができた。これは状況としては進歩だと思うし、今後も色々話をする為の前提ができたようなものだと思う。怪我の功名とも言える。
また、もう一つの例としては、授業内容以外のことを聞くと、それは「型」の外のことなので教員が嫌がるということを発見したことを書いておこう。僕は校内の別部門に出す書類について教員に添削をお願いしたのだが、日本や中国ならなんとかなりそうなところを、かなり嫌な反応をされた。そこでもやはり「型」なんだろうなという推測はついたのだが、「なんでも聞いてくれ」と宣言した矢先の反応で、「こいつ嘘つきじゃねえか」と、「なんでも」の裏とりをしなければならなぬのか、という感触を受けることとなった。しかし、今度は別の学校、元々オンラインで学籍があり、今も学籍はある方の教員に連絡したら、アポの取り方から指導まで、全部やってくれたのである。「別の学校に出すんですけどいいですか」と聞いたら、「だって、うちの学生でもあるんだろう?だったら大丈夫だよ」とのことだった。おかしなことに、どこの学校もこのサービスはあるのだが、英語コースの学生にはそれを提供していないのだ。なので、先学期は先学期でダメと言われていて、今の学校にもメールは出したが、「学部の学生対象だからダメ」ときていた。でも、仮にも今ではオンラインの学籍だけがある学校へ相談したら、とことん添削に付き合ってくれたというわけだ。面識のある先生だったので、これはこれで二回も愉快に進んだ。
ここで「型」のルールから考えるなら、要は「条件を満たしていれば、ある程度は対応してくれる、しかし、その条件を満たさないことには、上から怒られるからダメ」ということなのだろう。
これは多分、経営破綻や突然の発表、サービスの範囲限定化など、色々なところに共通する、オージーの精神の一端だろうと思うのだが、だとすると僕が授業で習ったMateshipと呼ばれる「なんとなくフレンドリーな印象」を持つ特徴からは全部外れてくるのが微妙なところだ。どの辺を以てしてフレンドリーで、寛容で、困っている人を助けるオージーと言うのか、その辺の見極めにはもう少し時間がかかりそうだ。多分だが、よっぽど長い付き合いの相手でないと、「お前のことなど構ってられるか」という、日本よりも冷たいパーソナルスペースがあるのだと推測する。こちらにきて長い日本人や外国人にも、その傾向がある。なので、前の学校でまだ「温度」を保っていた中国人スタッフに出会ったときなど、どれだけ救われたことか。
まあ、ある意味、カルチャーショックの一部なのだろうが、基準値の違いは長くいないとわからないと言うことなのだろう。前回よりは、少し理解が深まった気がしないでもないが、この国に昔ほどの魅力を感じなくなってきたのも反面事実だ。まだ先は長いのに困ったものである。
【参考文献】
オーストラリアの暮らし 内務省発行(ビザ取得前)
オーストラリアで生活を始める 内務省発行(ビザ取得後)
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