
旅に出れば、何か記念に買いたいと思うのは人の常だ。僕はあまりそういう買い物をしないのだが、今回、突如帰ることになったので、「何か」を買うことにした。
これは直前まで考えていなかったのだが、帰る間際になって、いきなり「オーストラリアなものが欲しい」という欲求に駆られるようになったのだ。が、オーストラリアなものと言っても、VEGEMITEは買っていない(貰い物を7つ持ち帰りはしたが使うつもりはない)し、カンガルーのフグリパースも買っていない。
色々と見たのだが、結局買ったのは本と切手アルバムと記念硬貨という組み合わせになった。

記念硬貨①はFigure 8 Dragon and Phoenix 2020 2oz Silver Antiqued Coinで、限定3888個のもの。形が面白かったので、思わず手を出してしまった。235AUDだったか。

記念硬貨②は2020 Australia $2 2-oz Silver Surfboard Colorized Coinで、限定2500個。こちらも形に釣られて手を出した。こちらは250AUDだった気がする。

もう一つは、2020年記念切手アルバム。こちらは中に色々な切手が紹介されていて、もちろんちょん切れば使えるのだが、完全に保存用だ。英語の勉強・・・にするには、なかなか開きにくい代物だ。

ちなみにカンガルーフグリパースはこれだが、買おう買おうと思ってはいたものの、結局痛々しいので買えなかった。多分土産物屋では一番見つけやすいはずだ。何匹のオスが犠牲になったことか。だが、オーストラリア最高のギャグはこれだとも思う。使いでがなくて困ったんだろうなあ。

これだ。ブリスベンの博物館で、どうしても気になって撮影してきた。やっと使い道を見つけた感がある。
本は・・・国会議事堂で内閣の仕組み、とか、そのあたりのものを買ってきた。勉強できたらいいな、という美しい希望の産物だ。他にも、クイーンズランド博物館では、子供向けのハッカーの本を買ってきた。僕の英語で歯が立つのだろうかという不安もあったが、変なパズルやマジックハンドや蛇の模型を買うよりは数倍マシだろう。
何を買うのが正解、というのはないと思うのだが、他人にあげるにしても、やはり一番好きなものを買ってくるのが一番だと感じている。お土産というのは、形式化してしまってはいるものの、突き詰めれば「思い出をシェアする」ためのものだからだ。お土産をあげる瞬間というのは、自分が味わった興奮を友人と分かち合う、そんなエキサイティングな瞬間であるべきなのだ。
今回は幸い出歩くのを憚られる時期でもあり、僕は自分に、まあ無理やり家族に見せるお土産を買うことにとどめた。既に何度も来ているし、そんなに興奮できる国でもなかったからだ。
あえて言うなら、この国は「オーストラリア」という名の「制度設備の枠組み」に過ぎない。決まった金額のコインを入れると、表示された商品が出てくる、そんな場所だ。最大の商品は自然、なので、人間として面白い場所ではない。これが顕著に現れているのはTVドラマや映画だ。あの国には見事に優秀な映像作品がない。マスターシェフはバラエティ、それもイギリスのフォーマット作品だし、他のバラエティも似たようなもので優秀な作品はない。
詰まるところ、この国に深みを求めてはいけないのだ。ある時代以降の成熟したと思われる制度の枠組みの上で、全員がラジオ体操をしていることで国家の形を作っているのだから。中国のカルチャーフォーマット、つまり古いものは国内から、新しいものは国外からコピーや略取を行い、ゆるい枠の中で勝手に殺し合いをさせて良いものを残すと言うやり方とは逆のベクトルで全てが動いている。なのである意味、中国には良くも悪くもその「人間味」が見え隠れし、オーストラリアには理想型はあっても人間味はない。
また、基本的に人類は自然を屈服させることで自分の生存空間を創ってきた。その中で、オーストラリアというのは自然と共存する形を作ることには非常に長けており、その影響が見えるものを買うことが一番の土産ということになる。だから、基本的に、風景が最大の記念品であり、ツーリズムが最大の産業となっている。その結果、買って帰る土産品は育ってこなかったのだ。だから、制度上の工芸品であるコインや切手は最高にして唯一の持ち帰れる、価値が落ちない記念品ということになる。自然要素が入っているという意味では、カンガルーフグリパースが最高峰に位置するとも考えられるが。
ということで、今回は「制度の切れ端」を土産に買ってきた。Tシャツやコアラのおもちゃはもう二度と買わないだろうし、味のセンスの狂ったTIMTAMは僕の土産品リストには永遠に並ぶことはない。これは留学の話にもつながる話だが、選ぶならコアラやカンガルーの医学か、アボリジナル言語学か、その仕組み感が溢れた何かでなければならないという思いを余計に強くしている。何よりも、個人的には知識が一番の土産と言えるからだ。その知識を身につけることで、自分が最大の土産の総合体になる、そんな過程が本来あるべき留学の姿とは言えないだろうか。
僕はまだ土産になりきれていない。それを、第二章ではオンラインで実現していこうと思う。
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