
ブログのブームがすっかり過ぎ去ったこのタイミングで始めることにしたこのブログは、語学留学に飛び出すある日本人中年の奮闘の記録である。準備編・豪州編・その後編の構成で、順を追って如何に思い立ち、如何に学び、如何に苦しみ、如何に収穫を得たかを記して行きたいと考えている。
今回は、なぜ豪州に行くことになったかを記してみたい。
日本人男性、中年、中国在住、文学修士、医学博士、MBA修行中、とりあえずヘキサリンガル(メインは日中…ちょっと英・韓・広・台)、転職歴無数、本職以外に現在同時進行の仕事中は3〜4件。私の概略はこのような感じだ。
言うまでもないことだが、人生の過ごし方は個人個人違うもので、他人の時間や物を対価なく奪ったりさえしなければ、こうしなければならないというルールはない。そうした枠組みの中で、なるべく他人を煩わせず、出来るだけ受け身で仕事をしてきた私が、唯一できることと言えば、稼いだお金を好きなことに使う事くらいのものになるのかと思う。
文字にしてしまうと語弊がありそうだが、仕事には恵まれてこなかった方だと思う。もちろん、普通に稼ぎはあって、サラリーマンよりはよっぽど自由には暮らせたし、本も出したし、こんなテキトーな生き方をしている人は他には見つからないが、「一生を賭けて燃え尽きることのできる仕事」には残念ながら出会えていない。なので、「恵まれなかった」のだ、と思っている。ある意味よく言われる「これしか出来ないから」という状態の中、何をしていても虚しさは付き纏った。実際にはやりたい仕事はあったのだが、そういうところに縁は無かった。私が応募した席に座った人は恐らく組織に合う方ではあるとは思うのだが、何かをする方ではなかったし、敢えて言えば私よりも不器用な方が多かった気がする。器用貧乏とはこういうことかと時に感じる。
そうした仮初めの「作業」の機会しか得られぬ中、自分の仮説を実行に移せる場と言えば、学びくらいのものだった。なので、人生のどの段階においても、学ぶことが生活の重心になり、仕事は片手間に過ぎない生活を送ってきた。結果、あまり役に立たない学位ばかりが手元に積み重なった。
そのような中で、出会ったのがインターネットを利用したビジネススクールだった。最初考えたのは、今まで長期に渡って会社に勤務したことがなかっただけ、会社についての知識が欠けている事だった。どうせ会社に勤める機会がないのなら、いっそビジネススクールに入り、知識だけでも身に付けたい、そんな思いと、道具としての英語の重要性は中国でも身にしみて感じていたので、ついでに言葉も勉強しよう、そんな考えで入学を決意した。結構なお金のかかる学校なので、とりあえず決心には時間を要したが、日本への復帰も考えると、色々な授業で知り合いも増えると考え、応募書類を揃えた。
その学校には、1年に最低1回は海外のキャンパスに出向いて授業を受けなければならないという決まりがあったのだが、自分の英語のレベルを痛いほどわかっている状況で、そこにはなかなか踏み切れなかった。少し及び腰になっていた時期、偶々学校の全関係者が入っているフェイスブックのページで、すでに何度も現地研修に参加している人が呼びかけを行なっていたので、そのページに入って相談をしてみたところ、どんどん巻き込まれることとなり、結局私は2018年4月末には現地の空港に降り立っていた。
もちろん、その時には別の数値目標もあった。どうせ行くなら、マイレージも一緒に目標にしてしまおう、そんな考えで、プラチナメンバー計画として、この研修を捉えなおしたのだ。1年に2回飛べば、マイルは4万になる。そこに日中間の往復を何度か繰り返せば、5万は軽く超えることができるではないか。そんな思いは、私の初研修を前のめりにしてくれた。
TOEICは810点でも、英語はほぼ使用した事がない。ので出来やしない。この成績は小学校時代、意味もわからず習った基礎英語の遺産のようなものだ。さらに、現在の私について言えば、生活・仕事言語は中国語90%と日本語10%な環境に暮らして久しく、英語の授業は当然のごとくまともに理解できよう筈もない。そのような状態で受けた生まれて初めての英語科目、正味4日の授業の中、最初は喰らい付こうと必死になったものの、2日目からはよくわからない音波が頭上を飛んでいくようになった。大脳がテンパってしまったのだ。しかし、幸いなことにレポート科目だったので、そこはどうにか切り抜けられた。
だが、そこで考えることは多かった。
このままでいいのだろうか。もしかすると、このままでも多分「技術的」に「卒業」はできるのだろう。しかし、授業がわからないというのはお話にならない。そして、海外の大学院から学位を貰っても、その社会が語れないのではお話にならない。現地で学ばなければ、阿吽の呼吸はわからないし、同窓生とは同じ言葉、同じ波長では話せないのではないか。毎学期、学生の居ない休暇中に10日程度しか来ないのでは、この学校に居たとは言えないのではないか。仕事の合間にできるというメリットを得ている以外に、もしかしたらキャンパスにいないことで失っているものの方も同様に多いのではないか。そんなことが一瞬のうちにぶつかり合い、「ここでやらなきゃわからない」との結論に達した———迷いはしたが、我ながら動くのは速かった。後悔するなら行動してからしたい、という思いも歳を重ねるにつれて強まっていたのだろう。踊る阿呆への道がそこに開けたのだ。
記憶では、丁度中日(なかび)に休憩時間があったことから、私はビジネススクールの担当者の紹介を経て、語学学校の担当者と話をする機会を得た。なぜかその時点で英語で対話をする羽目になりつつも、1時間ほどの間に学費やら寮やら大体の状況を聞いた私は、ここ数ヶ月の収入で留学費用が貯まるかだけを計算して、ほぼ1年の語学留学を即決してしまっていた。家族に相(報)談(告)したのは、その日の夜のことだったが、「いつものことか」とばかりに、驚かれはしなかったし、逆にこちらが驚くほど止められることも責められることもなかった。
その後は速かった。疾風怒濤が如く、オンラインで手続きを進め、学校サイドの入学許可を入手したのは研修から戻った直後の5月中旬のこと。そして、移民局のサイトが「早すぎる」という表示を頻繁に出すので一回はストップしたものの、豪首相が変わったこともあり、9月初旬の2回目の現地研修から戻るとすぐにと移民部門のウェブサイトでビザ申請書類提出のボタンをクリック、1週間後に検診(中国に長かったことから、胸部X線が必須になった)に行くと、その3時間後にはビザ発給を報せるメールが届いてしまった。出発は来年4月を予定していたので、拍子抜けするような速さだ。
あらましはこんなところか。これから出発までの半年あまり、とりあえずは手続き上あまり日本語のサイトでは教えてもらえない点や、ぶつかった壁とその解決法について記していきたいと思う。特に、入学申請やビザ申請などに関しては、もともと結構な費用がかかる手続きになるので、変にエージェントを使わなくても済むよう、経験した全てを提供して行きたい。